2017/04/02

世紀末の美女デイジー・フォン・プレス公爵夫人の軌跡 vol.2  クションシュ城


イメージ 2
            クションシュ城公式サイトhttp://www.en.ksiaz.walbrzych.pl/


南西ポーランド、ヴロツワフの南に位置するヴァウブジフ市は世界遺産シフィドニツァの平和教会からも近い小都市です。この町にマルボルク城、ヴァヴェル城に続き、ポーランドでは3番目に大きな城があるので見学してきました。名前はクションシュ城。
建物を見てわかる通り、ここの歴史は長いです。始まりは13世紀後半から。
ボルコ・スロヴィ公が数多く建てた城砦のひとつとして着工したクションシュ城は1392年までピアスト家が所有していました。そして約百年後の1497年にチェコ王ヴウァディスワフ2世ヤギェロンチクが宰相ヨハン・フォン・シェレンベルクに城を払い下げ、1508年にはヨハン・フォン・ハウグヴィッツが短い間オーナーとなりました。しかし間もなく、翌年6月にはホッホベルク家のコンラート1世に譲られることになります。このホッホベルク公爵家が1941年のナチスによる強制接収までクションシュ(ドイツ名フュルステン)城の主となったのです。


クションシュでは18世紀の初めから40年近くをかけて増築工事が行われ、この時代にみごとなバロックスタイルの翼ができあがりました。度重なる改築工事の中でも、1907年からハンス・ハインリヒ15世が行った大工事はクションシュ城の最後の大改修となりました。この間、西翼、北翼が完成しています。そびえる塔は高さ47メートルを誇っています。

 



イメージ 1





1891年12月にこのハンス・ハインリヒ15世は、のちに公爵夫人デイジーと呼ばれて親しまれたマリア・テレサ・コンウォール=ウェストと結婚しました。二つの大戦と戦間期を生きた貴婦人デイジーはクションシュ城の歴代のミストレスのなかでも波乱み満ちた人生を送った女性として知られています。第1次世界大戦のときは、傷病兵を敵味方関係なく自らの手で看護をしたというエピソードも残っています。城内にはホッホベルク公爵家に関する展示も充実しています。

     
デイジー・フォン・プレス公爵夫人
     

ホッホベルク家はナチスに対する抵抗の姿勢を崩さず、長男のハンス・ハインリヒ17世は英国軍、そして弟のアレクサンデルはポーランド軍でドイツと戦いました。
城を接収されデイジーはヴァウブジフに移り、1943年にそこでひっそりと亡くなりました。その後彼女がどこに埋葬されたのかは謎でまだはっきりしていません。

第2次世界大戦のさなかには、クションシュ城にベルリンから疎開のために送られたプロイセン王家の蔵書などが保管されていたこと、また1943年にはナチスが秘密基地の建設に取り掛かり、ちょうど城の地下にあたる場所に約1km続く地下トンネルが掘られたこともわかっています。
この通路がどういう目的で造られたのかについては研究家からさまざまな意見が出ていますが、実際にはどうだったのかまだはっきりしていません。エレガントな室内はまるで砦のように荒々しくむき出しの壁が目立つ状態にされてしまいました。
戦中戦後を通じて城の調度品は価値あるものから持ち出されてしまった上、その後がない間だれにも顧みられることもなく、かつてのクションシュ城は想像もできないほど荒れ果ててゆきました。
しかし1956年から県による修復工事が行われるようになり、1991年に城の管理は地元ヴァウブジフ市に移管し、現在はドルヌィ・シロンスク地方の屈指の名所としてフェスティバルやコンサート等のイベントが開催されて多くの観光客が訪れる場所となっています。

ドルヌィ・シロンスク地方の東方に位置するシロンスク地方(中心都市はカトヴィツェ)にはこの城の最後の女主人デイジーが愛したプシチナ城やプロムニツェの狩猟館など公爵家ゆかりの歴史的建造物がいくつも残っています。



クションシュ城へのアクセス 

ワルシャワからヴロツワフまで電車で約4時間。ヴロツワフからヴァウブジフまでローカルバスや地元の民営バスを利用して約1時間半。市バスの8番(Zamek Książ方面行き)に乗り換えて終点で下車。


おすすめ

城の庭園。ここからは城の側面が見えて、正面からとはまったく違う印象。また、少し離れたところから城を横から撮ると絵になります。
宿泊城の敷地内にホテルが3軒あります。
***

Hotel Zamkowy
Przy Oślej Bramie
**


Hotel Książ
 

レストラン
城の正面入り口より少し手前左側にあるレストラン・ブラマ(Brama)ではランチやティータイムを楽しめます。